はじめに
私たちRELAVIN ラテンアメリカ自立生活ネットワークでは、現在ラテンアメリカ各国で一斉に走り出している、Sistema Integral de Cuidado(統合ケアシステム)導入の動きに何とか追いつき、これに自立生活センターが介入してケアのサービスの提供者となることを目指している。私たちは、欧米から始まったいわゆるパーソナルアシスタント制度を障害者に対するケアのサービスとして導入することを念頭に活動して来ており、このような大規模なケアシステム導入の動きを、遠目に何となく進んでいるのを知っていたくらいで、その音がだんだん大きく近づいて来るのにしたがって危機感は持ってはいたものの、その全貌が知れたのはもう目の前にそれが迫っていた昨年になってようやくのことだった。
「統合」というのは、高齢者の介護に、幼児の保育、障害者のケアがそこに加わり一体となってシステムとして運用していく計画であるためであるであるが、私たちにそれが提示されたときには、もうすでにできあがっており、まさに寝耳に水のような事態であった。障害者権利条約のほとんどの条項にあるような「障害者本人、障害者団体相談すること」という、現在ではあたり前になった(と思っていた)常識をまるで知らなかったような扱いに、そこで初めて私たちラテンアメリカ各国で活動するアクティビストたちはまとまってこれに対抗する運動を開始したのだった。
とりわけ日本の障害者運動に関わっていると、障害者の権利と女性の権利がときに衝突して譲ることができなくなる場面を多々見てきた。私たちが今ラテンアメリカで直面している事態は、まさにそうした権利と権利がぶつかり合っているようにも見え、私たちは声を聞いてもらえなかったどこか被害者的な意識にも囚われがちでもある。しかし、ここはもう少し冷静になって、このケアシステムの導入がいかにしてここまで至ったか、その経緯を振り返ってみたい。そうすればこれは明らかに、長い女性運動の大きな成果であることがわかり、そこから学ぶ多くのことがあり、私たちに欠けているものが何なのかを明らかにすることもできるだろう。また、このシステムのどこに私たちが入り込む余地があるのかを明確にするためにもこの検証は役に立つだろう。
本検証の構成
本論考は、現在進行中のラテンアメリカでのケアシステムの導入がどういう経緯でここまで来て実現に至ったかを振り返り、それに対応している私たち障害者の自立生活運動がここから学び、対応の仕方を検討をすることが目的である。以下のような構成で述べられる。1) これの発端になったフェミニストたちの運動を確認する。主に女性が担う家庭内における家事等の不払い労働を「発見」したとされるマルクス主義フェミニズムについて確認する 2) ここで「発見」されたものが女性にとって不平等の源泉であると認識され、これを解消するために国連等国際的な枠組みで議論となった経緯を確認する 3) この国際的な枠組みがラテンアメリカという共通の言語でまとまった地域の枠組みに落としていき現在に至った過程を確認する 4) 以上を受け、これを障害者運動と比較し現在の私たちができること、やるべきことなどを考察して加える。
1.第二波フェミニズムと家事労働という不払い労働の「発見」
ここ近年のラテンアメリカでの女性運動の盛りあがりは、とくにSNSを中心に情報が拡散されることが多いこともあり、インターネット上でそれを目にして知られることも増えている。こうした現在のフェミニストの運動が現在のケアシステムの導入にも影響を与え後押ししていることは間違いないが、その発端を探れば、1960年代後半に始まった、いわゆる第二波フェミニズムまで遡ることができる。英語で「feminism,フェミニズム」という語が使われた最初は1895年、一般の人の間で使われるようになったのは1910年代頃と言われ、この頃女性の参政権を求めて、主に欧米の裕福な女性を中心に立ち上がっていた運動を「第一波フェミニズム」と呼ぶ。「英米では一八六〇ー八〇年代にはじまり、一九二〇年代に終息したとみなされている」★1。
これに対し、1960年代後半に始まる「第二波フェミニズム」は、当時のベトナム戦争反対運動に象徴されるような、新左翼を中心としたグローバルな学生運動、反戦運動、公民権運動など、差別を廃し、平等を求める広い運動を背景として始まっている。第二波フェミニズムは、第一波フェミニズや1960年代前半に米国の公民権運動の熱気の中で生まれ第二波フェミニズムの端緒となったリベラル・フェミニズムが、体制そのものを疑うことをせず、その中で法や制度の改正を求めて男女平等を主張していた中で、もっと根源的(radical)に、人種や階級、そして家族制度など「構造」そのものを問うようになる。第二波フェミニズムはその中で、「ラディカル・フェミニズム」と「マルクス主義フェミニズム」とに分けられる。2020年4月号の『思想』のフェミニズム特集II-労働/国家でこの時代のマルクス主義フェミニズムの成果を、現在さらに体系化した理論にすることを目指している一派、「社会的再生理論」を紹介している森本成也の論文では、女性の主たる抑圧の原因を、女性のセクシュアリティの支配に見いだすのか(ラディカル・フェミニズム)、女性労働(とりわけ家事労働)の支配に見いだすのか(マルクス主義フェミニズム)というところで分割線が引かれている。その原因を家父長制という男性支配システム、資本主義という社会システムに求めるのか、第二波フェミニズムの中でもそれぞれまた立場の違いが生まれてくるが、いずれにせよ、政治や経済という公は男性が、家庭という私的な領域は女性がというこうした構造自体に疑義をはさみ、それを変革しようという運動であった。
『家父長制と資本制』で上野千鶴子はこう記している。「マルクス主義フェミニズムの最大の理論的貢献は、「家事労働domestic labor」という概念の発見である。「家事労働」は「市場」と「家族」の相互依存関係をつなぐミッシング・リングであった。「市場」と「家族」へのこの分離が生じた近代産業社会という歴史的に固有の空間の中で、この分離をつなぐ要の位置に、家事労働は存在している。家事労働とは近代が生み出したものであり、超歴史的な概念ではない。マルクス主義フェミニズムは家事労働の歴史性を問うことで、近代社会に固有の女性の抑圧のあり方を明らかにすることに成功した」。★2フェミニズムは、それまで、性(セックス)という自然なものを根拠に女性という性の弱さや劣等性を説明されてきたのを、ジェンダーという新たな性の考え方を導入して、それが社会的に構築されたもので自然で変更不可能なものではないと説明し直したが、マルクス主義フェミニズムは、女性は出産し、子育てし、家事をするという、同じように自然なもののように決定されて変えられない役割であるというそれまでの認識を、資本主義が構造的に市場から排除した無賃労働であることを明らかにした。1972年、シルビア・フェデリーチェ、マリアローザ・ダラコスタ、セルマ・ジェームス、ブリジット・ガルティエで創設された「国際フェミニストコレクティブ」は、家事労働に賃金を支払うことを要求するキャンペーンを展開しており、現在でもストライキを呼びかけている。世界経済フォーラムで14年連続ジェンダーギャップ指数で一位であるアイスランドでは1975年に国の全女性によるストライキが実施された。
2. 女性の権利が国際的枠組みでの議論となる経緯
女性の権利が国際的な舞台で議論され、その後実際に政策に移され実行されていくきっかけになったのは1975年、メキシコで開催された第一回の世界女性会議からというのが通説である。★3上述した第二波フェミニズムが世界中で盛りあがっていた時期と重なり、当然その議論に影響を与えたり、実際に市民組織として議論に加わったりしている。しかし遡れば、第二次世界大戦後国際連合が組織され、国連憲章前文、また1948年の世界人権宣言で男女の同権が謳われ、日本でもここから初めて女性が参政権を得たことからわかるように、国際的にもこれを起点に男性の付属物的な扱いから個人として人権を持ったと言っていい。それまで権利というのは国ごとに定められるもので、国外からはアンタッチャブルな領域であったのが、それを超えて保障される枠組みが整備されたことは人類全体、とりわけ女性にとっては計り知れない転換点だったと言えるだろう。★4
イタリアの女性運動を研究する伊田久実子によれば、こうした法的な枠組みの転換とともに、戦後の世界的な労働環境の変化を女性の視点の変化の原因としてあげている。移民や労働者として国境を越えていく人々が増え、その半数は女性だったと見積もられているが、それまで国内的な視点でしか見ることができなかった女性の置かれている地位を相対的に見るような視点が得られたという。実際に交流も増え、こうしたグローバルな女性の交流が第二波フェミニズムの背景としてあり、それが1975年の世界女性会議につながったバックボーンとしてあったと述べている。★5
また国連の役割は人権の保障だけではなく、もともと人類の発展と繁栄のための戦後の枠組みづくりのためであった。1946年に設立された国連の女性の地位委員会(CSW)は、社会経済理事会(ECOSOC)の下に設置され、1970年代に入って開発に女性を主体として取り入れる「女性と開発」アプローチ(WID)が推進されるようになり、伊田によれば1975年の世界女性会議の開催に至るまでの根回しを強力に進めていたのは、これに関わるネットワークだった。★6
b. 1975年メキシコシティ世界女性会議と国連女性の10年